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千石先生の思い出


2022/10/01

連載7 成子天神坂下にて

| by 管理者

おい!せんごくぅ~ このバカタレが!そんなこと言っても何も出ないサ~。

 

おばちゃんがカウンターの中で嬉し泣きの瞼をぬぐった。全ての客をバカタレよばわりする剛の者と思いきや、実はたいへん涙もろいお方のようだ。

西表ヤマネコ研究の第一人者であり、学生のころの憧れだった安間先生が目の前で泡盛を飲んでいる。となりで千石先生がおばちゃんの手料理をおいしそうにつまむ。この店には、情報交換会の運営をとりしきる、銀行マンのMⅠ号氏に連れてきてもらった。

筆者は路地にはみ出したビールケース(この店では椅子と呼んでいる)に座り、冷蔵庫のまえに陣取る。忙しいおばちゃんのかわりに常連の皆さんのオーダーを受けてビールを取り出す役が座る場所だ。ほぼ常連しか来ないこの店においては、筆者は最年少の新人であり生態的地位はパシリなのである。ちなみにこの店の客は、ビールをたのむときも料理をたのむときも、○○いただいてもいいですか?とおずおずとおばちゃんに聞く。そしておばちゃんにバカタレと言われ、いくつか小言をもらったのちに、おばちゃんからパシリに指令が飛び、ビールが渡されるしくみになっている。泡盛に至っては、ものすごい貴重品を配給される避難民よろしく、おばちゃんの顔色を伺いながら細心の注意を払って注文をしなければならない。おまえ飲みすぎだよバカタレが~といいながらおばちゃんが大ガメから泡盛を酌みだしてカラカラに入れてくれる。使い込まれた竹の柄杓がなんともいえない風情だ。料理をお願いする時はさらに緊張が走るが、首尾よくおばちゃんの手料理がカウンターから姿を現した瞬間には、一同が歓声をあげて一皿を迎える。常連の一人が押し頂くようにしてテーブルに置いた料理にため息が漏れる。それだけおばちゃんの料理はありがたいものなのだ。勝手を知らない新人が、礼儀をまきまえずにサラサラとメニューを読んで注文などしようものなら、常連から頭を叩かれる。なんちゅう店だろう。

そのような背景の中、沖縄料理にも造詣の深い千石先生が、おばちゃんの料理を絶賛したところ、冒頭のようにおばちゃんがうれし泣きをしてしまったというところで話しがもとにもどる。客をわが子のように手荒に扱い、会話の冒頭にかならず『このバカタレが・・・』とつけるこの女性こそ、伝説の沖縄料理屋 壷屋のおばちゃんである。

イメージとしてはNHKでやっていたちゅらさんのおばぁに近い雰囲気だ。声も方言も同じだから例えとしては悪くないと思う。筆者が入り浸っていた西表島でも同様の年齢層の女性は皆、おばぁと呼ばれていたが、この店ではなぜか皆、おばちゃんと呼ぶ。

おばちゃんはこの細い路地裏の小さな店でずっと戦後の東京の歴史を見守ってきた。ここにあつまる若者たちの成長を見守ってきた。

 

筆者は、新宿ゴールデン街のサブカル臭漂う古い飲み屋から、数々の文化人が育っていった・・といった逸話が好きだ。しかし、たいていはタレントや評論家や作家や音楽家のエピソードであるため、全く親近感がわかないし、口に入るものが乾き物だったり、いかに安く酔っ払うかに主眼をおいた安酒のエピソードだったりすることが嫌で、実際に足を運んで輪に入りたいと思ったことはない。筆者の母校である麻布大学は、バンカラという死語をいつまでもひきずっていた大学という痛い一面をもつ。寮に入った子は皆、体育会の部活に強制的にいれられ、日々の鉄拳制裁はあたりまえ。先輩の姿がみえるとどんなに遠くからでも路上で『押忍』と声を張り上げる。ソコかしこの街路樹で、大阪のセミやら青森のセミが鳴き、命ぜられるままにスリッパで遊びだす(筆者注参照のこと)。学祭の路上は急性アルコール中毒患者ともんじゃ焼きのオンパレードとなる。いずれも不味い乾き物と、究極の安酒に支えられた暴飲の結果である。筆者も、昨日今日酒を覚えた風情の上級生に、酒の一滴血の一滴などと教えられたが、心には何も響かなかった。正直、子供の頃から夢見た、あこがれの獣医大学に対して大きく失望したものだ。

そんなトラウマもあり、『文化人があつまって、美味しい料理を食べて、良い酒をほどほどに飲む・・そういう場所は無いものか?』とつねづね思っていた筆者であったが、壷屋はこの想いを完璧に具現化してくれた。しかもジャンルが沖縄文化・自然科学と来て、常連客もその道のそうそうたる人物たちが顔をそろえていた。まさに理想郷である。

 

そんな壷屋の何十周年だったかの記念パーティにパシリとして参加させてもらった事がある。正確な年数が思い出せないのは、宇根先生から呼び出された時の緊張で海馬が縮んだためであることはすでに述べた(筆者注参照のこと)。

 

そこで筆者は、千石先生が激しく踊る姿を見た。

                                  つづく。

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筆者注:一昔前の麻布大学の体育会系縦社会では、下級生たちは先輩荒ぶる神々に一芸なるものを奉納して、自らの学生生活の安全を祈願していました。その中でも、下級生が街路樹によじ登り、自分の出身地にちなんで『大阪のセミが鳴きます』とか『鹿児島のセミが鳴きます』と口上を述べたあと、ミーンミンミンミンと大声を張り上げる芸や、スリッパで遊ぼう♪と歌い踊りながら、スリッパを用いたモノボケを披露するのが流行っていました。主としてスリッパのほうは機転の利くウィットに富んだ学生がやらされていましたが、田舎から出てきて、ただ呆然と立ち尽くすだけのイモ学生は、とりあえずセミになって急場をやりすごします。そのため麻布大学では一年をとおしてセミの声が聞こえる、地球温暖化現象の最先端を行くスポットとなっていました。

さて、おばちゃんの料理ですが、本当においしかったです。美味しいと言葉に出した筆者に対し、千石先生はこう説明してくださいました。『沖縄の炒め物の出来は、炒める油にかかっている。本来はブタの背油を使って炒めるのが本当なのだが、最近はラードを使うところも多い。ラードどころかサラダオイルで炒めたようなものは紛い物であって食べる価値はない。おばちゃんの料理は正真正銘のブタの背油から丹念につくっているから旨いんだ。』皿に出てきた段階では目にみえない楽屋裏の努力を衝いた千石先生の賛辞におばちゃんは泣いてしまったのです。読者諸兄のグリーンカーテンの産物は、何で炒められていますか?来年の夏は、せめてラードで炒めてみましょうね。ちなみに肉屋さんで、すき焼きのタレのとなりに置いてあるのは牛の油ですから間違えないようにお願いします。

なお、連載2で宇根先生に呼び出された筆者が、緊張のあまり海馬の萎縮を起こすというエピソードが紹介されていますが、本稿で、このあと記憶が定かでないシーンが出てくるたびに、海馬のくだりが出てきます。最初に宇根先生に呼び出されてから壷屋に至るまでに2年の月日がたっており、時系列がよくわからないと思いますが、あくまでも宇根先生からの呼び出しが全てのはじまりであり、そのあと出てくる海馬の話は全て後遺症としての記憶障害と理解していただければと思います。


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